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1979年次稲門会(昭和54年卒)(54ら会) 上野寛永寺ツアー報告
2015年11月3日午後0時半、西郷隆盛銅像前に32名が集合。まずは、清水観音堂。京都清水寺の縮小版で、「清水の舞台」からは不忍池が見渡せ、池の中にある弁天島の弁財天を見下ろした。上野大仏像跡に行く。地震や火災で何回も損傷を受けながらも再建を繰り返したが、戦争に向けての軍需金属資源としてほとんど供出され、現在はパゴダが建立されて顔面部のレリーフを安置している。徳川家をまつる上野東照宮(重要文化財)に向かう途中、上野動物園内にある五重塔を眺める。東照宮では、黄金色に輝く社殿の壁などを堪能し、本殿門の前で記念撮影。
大噴水池、かつての寛永寺根本中堂跡で現在の国立博物館前庭を担う広場を通り、戦前唯一の帝国図書館であり後の国会図書館上野支部となり現在国際子ども図書館であるネオ・ルネサンス調の重厚な建物の横を過ぎ、当日のメイン訪問先である寛永寺に向かった。
東叡山寛永寺は、芝増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺であり、皇族が歴代住職を務めて強大な権勢を誇ったが、明治維新へ向かう際の戊辰戦争で壊滅的打撃を受け、多くが消失した。現在の諸堂は移築等によって復興させたりした建物がほとんどではある。
今回は地元在住で寛永寺付属幼稚園出身でもある稲門の芝江氏の尽力で特別拝観が実現し、お坊さんのガイド付きで十五代将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いのあとに謹慎していた部屋、徳川家の廟所で十三代・家定と妻の篤姫の仲睦まじい霊廟などを拝観することができた。
その後、隣接する谷中霊園内の寛永寺直轄飛び地にある慶喜公の墓も見学したが、居合わせた市井の歴史研究家(?)から「なぜ慶喜が寛永寺境内で埋葬されなかったのか?」の裏解釈を聞いた。
半日行脚でアラカンのメンバーの体力がかなり消耗してきたころに、いよいよ待ちに待った食事会が「伊豆栄梅川亭」ににて催された。同建物の建築設計に携わった荒川稲門会長清水氏のご紹介で、天井と側面がガラス張りの『桜の間』に席を得ることができた。伊豆栄は上野池之端における鰻の名店であるが、その系列の梅川亭は(明治の元勲岩倉卿の勧めによって開設され)鹿鳴館時代の社交場の一つであった上野精養軒の奥に佇む風情ある建物で、江戸から明治にかけて栄華盛衰の激動の歴史を刻んだ寛永寺を肴にして酔いながら、稲門の仲間との交流を深めたのである。
ちなみに、現在の寛永寺住職は慶應閥とのこと、ちと残念である。
(小林規男記)
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