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1979年次稲門会(昭和54年卒)(54ら会) 三鷹武蔵野まち歩き
小春日和となった2月21日、太宰治の足跡を追いつつ、三鷹から吉祥寺にかけての武蔵野まち歩きをしました。太宰が好きだったという、1929年に作られた三鷹電車庫の跨線橋上での記念写真から始まります。眼下には中央・総武線や特急あずさを眺めることができ、電車ファンであれば垂涎もの。
その後、太宰と森鴎外(林太郎)の眠る禅林寺に。この2人のお墓は、はす向かいに位置しており、太宰の墓前には新しい花と共に、色々な種類のお酒が供えられており、彼の人気の高さを改めて知らされました。商店街の道沿いにある三木露風の「赤とんぼの碑」を見ながら、「太宰治文学サロン」に。この間、太宰ゆかりの場所後には説明案内板が設置されており、彼の足跡を忍ぶことができます。数ある案内板のなかで、なんとも切なかったのは、彼が自宅での子どもたちの喧騒から逃れて、執筆活動をするために借りていた肉屋の離れの跡地が、ファミレスのごみ置き場に位置していたことです。訪れた人は、ポリバケツ越しに案内板を読むことになり、いくら「無頼派」の代表とはいえ、いかにも寂しいものを感じました。
文学サロンには、有名な銀座ルパンでのとまり木の写真を再現するように、バーカウンターが再現されています。しかし、愛用の万年筆など「ゆかりの品」と言うのはほとんど残っていないそうで、年表を説明してもらいながら忍ぶ形になります。その後、入水した玉川上水に。当時は「人食い川」と呼ばれるほど急流だったらしいが、現在では他の上水へ分水したため水量は少なく、鯉が泳ぐなど、面影もありません。
太宰の足跡をたどるのはこの辺で終わり、「路傍の石」で有名な山本有三が住んでいた洋館をそのまま残した記念館に。戦後は、小説家よりも貴族院議員としての活躍がメインで、現行憲法の前文から第九条くらいまでの翻訳を手掛けたことは、今回初めて知ることでした。その他にも、国語教育に力を注ぎ、戦前からあった教科書などのルビをなくし、自立した教育を目指す方向性を作ったとのこと。
3時間に及ぶまち歩きも終わりに近づき、ジブリ美術館から井の頭公園へ。公園内の新装なった「焼き鳥 いせや」に到着。以前では考えられなかった入口に行列している若い女性客の刺すような眼を受けながら、予約した宴会場へ直行。足のだるさも忘れ、ビールに酔いしれました。
(長坂裕記)
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