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「WASEDA’S Health Study」は、早稲田大学の卒業生を対象に、長期間にわたって運動や食生活などの調査を行い、そのデータを健康づくりの研究に生かそうというスポーツ科学学術院と校友会が連携して進めるプロジェクトです。
同プロジェクトの意義や、日本の健康づくりの現状・課題などについて、プロジェクトの責任者である岡浩一朗早稲田大学スポーツ科学学術院教授と、下光輝一健康・体力づくり事業財団理事長、志岐幸子関西大学人間健康学部准教授の3氏に語り合っていただきました。
ハーバード大学を上回る規模で独自の調査をスタート
岡 「WASEDA’S Health Study」は、健康に関する研究を進めるうえで欠かせない、信頼のおけるデータを、長期にわたって収集・提供するという考えから生まれたものです。日本では初めての試みですが、すでにアメリカでは同様の調査をハーバード大学が行っています。
下光 運動と死亡率や糖尿病などとの関係を明らかにしたり、運動を活発に行う人ほど健康であることをデータから裏付けたりするなど、優れた成果を挙げていて、高く評価されていますね。日本では、このような大規模・長期間の疫学データがなかったので、運動の指針づくりなどに支障がありました。ハーバード大学のデータを日本に当てはめるのは、やはり無理がありますからね。岡先生たちの取り組みによって、日米のデータ比較ができ、新しい研究テーマも考えられるので、期待大です。
岡 ハーバード大学の調査は歴史があり、世界的にも有名なものですが、問題は男性の卒業生だけを対象にしている点です。私たちのプロジェクトでは、女性の卒業生にも参加してもらって、より幅広いデータを収集したいと考えています。
志岐 働く女性は仕事と家庭とを両立させるなかで、スポーツをする時間がなかなかとれないという事情があります。専業主婦も介護や子育てなどに追われて、どうやって体を動かす時間を見つけるかが課題になっています。そうした日本の女性の健康を長期にわたって調査するのは、大きな意義がありますね。
運動不足の解消に欠かせない社会全体での取り組み
岡 健康や運動に関する女性の状況や課題について、志岐先生からご指摘がありましたが、公衆衛生の観点から、日本の健康や運動の問題について研究されてきた下光先生は、現在の課題をどのように捉えていらっしゃいますか。
下光 第三次国民健康づくり対策の「健康日本21」が2000年にスタートし、そこでは1日の歩数を10年後に1000歩増やすことが目標になっていました。ところが、10年後の2010年のデータでは、歩数は増えるどころか逆に1000歩以上減っていたのです。総じて高齢者は体を動かすことに積極的ですが、働き盛りは運動不足ということもデータから、わかりました。働き盛りの運動不足は個人の努力だけでは解消できず、周囲のサポートや社会環境を変えていくことが必要であることを、この結果は教えています。
志岐 パソコンの普及などで、机の前にいる時間が増え、体を動かすことが少なくなっていますからね。
下光 ITやモータリゼーションの発達で、労働における運動量は確実に減っていて、その影響は地方ほど顕著ですね。
岡 クルマに長時間乗る、テレビやパソコンの前にずっといるなど、座り過ぎは大きな問題で、このままでは、日本人は満足に立つことすらできなくなるのではと危惧しています。企業によっては、座り過ぎ対策として、立ったまま仕事ができるスタンディングデスクをオフィスに入れているところもあります。
志岐 仕事をしている人の多くは、一日のかなりの時間を職場で過ごすわけですから、バランスボールに座ってパソコンに向かう、といったような工夫をする必要もありそうですね。
下光 ご存じのようにメタボリックシンドロームや認知症、運動器障害を指すロコモーティブシンドロームなどを予防するには、体を動かすことが大切です。それには、お話に出てきたような職場をはじめとした社会の環境づくりが欠かせません。医療費の抑制などの観点からも、健康づくりは社会や国を挙げて進めるべき課題になっています。
岡 これから求められるのは、健康に投資する社会ですね。
下光 世界保健機関(WHO)では、健康とは単に疾病がないとか虚弱でないということではなく、身体的・精神的および社会的に完全に良好な状態にあること、と定義しています。そしてWHOでは、健康は人間の基本的な権利であるとし、「Health for All(すべての人に健康を)」というスローガンを掲げています。
志岐 健康に対する社会的な取り組みが大切ということですね。
下光 そうです。さらに1986年にカナダのオタワで行われた会議では、健康を獲得していくために、ヘルスプロモーションという考えが提唱されています。ヘルスプロモーションとは、個人の健康づくりだけでなく、社会環境の整備も進めようというものです。「健康日本21」をはじめ、日本で行っているさまざまな活動や研究も、このヘルスプロモーションの考えに、基本的には沿ったものになっています。
心の健康維持も大きな課題
岡 体の健康は、当然のことながら心や気持ちにも影響しますね。心の健康をどのように維持するかが、現代の大きな課題になっています。
志岐 生活習慣病と同様にうつ病が増えているのが問題で、企業の生産性を下げる要因のひとつになっています。
下光 私は、企業がメンタルヘルス対策を講じる際に活用できるように、12年ほど前に「職業性ストレス簡易調査票」を開発しました。これは、職場環境や周囲のサポート、ストレス対策、患者本人の症状などを同時に評価するもので、この調査票を活用して、現在、多くの企業が職場環境や周囲のサポートなどを整えています。課題は、大企業はともかく、中小企業の対策が遅れていること。企業をバックアップする政策が、国で検討されています。
志岐 うつ病などの対策については、私の研究している感性からアプローチできるのではないかと考えています。ある大企業では、平日の仕事のある時間帯でも、社員が家族と一緒に歌舞伎や演劇、音楽などを鑑賞することを勧めていたそうです。一流の文化に触れて感性を磨くことは、WHOでも議論された霊的健康も含めた心の健康維持につながるように思います。
岡 「WASEDA’S Health Study」は、心身の健康について、医学や公衆衛生学だけでなく、感性に関連する心理学などから捉える際にも役立つものにしたいと考えています。
「健康の早稲田」を目指して
志岐 早稲田の卒業生は、「WASEDA’S Health Study」にどのように参加・協力することになるのでしょうか。
岡 4つの調査・測定内容から希望するコースを選んでいただくよう計画しています。まず、Aコース(1万5000人)ではウェブでの調査を実施します。また、Bコース(5000人)は、加速度計を装着していただき、歩数や身体活動量、座位時間などを測定し、郵送で送り返してもらいます。Cコース(2000人)には、全国の拠点で血液検査などの健康診断に参加してもらい、Dコース(2000人)は所沢キャンパスで運動能力や体力測定などを受けてもらう予定です。その後、1年ごとに疾病や介護等に関する情報を提供いただき、長期にわたって追跡していきます。また参加者には、健康づくりに関する世界の最新情報をメールマガジンで提供し、健康づくりの知識やスキル(ヘルスリテラシー)を高めていただくことも計画しています。
志岐 健診に参加すれば、学友にも会えるわけですね。卒業するとなかなか会う機会がないので、いいチャンスになるかもしれません。
岡 そうですね。愛校心のある早稲田だからできる調査だと思っていますので、ひとりでも多くの人に参加してもらいたいですね。
下光 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まって、健康や運動への国民の関心が今後高まることが予想されますから、それに向けて、ぜひ調査結果を発信してください。
志岐 東京オリンピックには、スタッフも含めて早稲田大学のスポーツ関係者が多数参加するでしょうし、各競技で活躍している早稲田大学出身のアスリートも少なくありませんから、注目が集まりそうですね。
岡 調査では、そうした第一線で活躍したアスリートの20年後、30年後の姿も捉えたいと考えています。
志岐 そうなると、日本だけでなく、世界の研究にも貢献できるものになりますね。
岡 医学部のない早稲田大学でも、健康づくりの研究に大きく貢献できることを示したいと考えています。それに研究論文が公表されると、必ず早稲田の名前が入りますから、大学の広報にも貢献できそうですね(笑)。
下光 岡先生の後継者も育てて、息の長い調査研究にしてください。期待していますよ。
岡 国の政策や指針づくりにも活用されるような充実した研究を目指し、「健康の早稲田」と呼ばれるようになりたいと思います。
公益財団法人健康・体力づくり事業財団理事長
下光 輝一
しもみつ・てるいち/1969年早稲田大学法学部中退、75年東京医大卒、米国クリーブランドクリニック、スウェーデン王国カロリンスカ医科大学留学、97年東京医大公衆衛生学主任教授を経て、現職。健康日本21推進全国連絡協議会会長、日本体力医学会理事長、日本学術会議生活習慣病対策分科会委員長も務める。
早稲田大学スポーツ科学学術院教授
岡 浩一朗
おか・こういちろう/1999年に早稲田大学大学院人間科学研究科博士後期課程を終了し、博士(人間科学)を取得。早稲田大学人間科学部助手、日本学術振興会特別研究員(PD)、東京都老人総合研究所介護予防緊急対策室主任、早稲田大学スポーツ科学学術院准教授を経て現職。特に、身体活動・運動を通じた中高齢者の健康づくり研究に従事している。
関西大学人間健康学部准教授
志岐 幸子
しき・ゆきこ/1992年早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。同大学大学院人間科学研究科修士・博士課程修了、博士号(人間科学)取得。スポーツ番組、報道情報番組でキャスター・コメンテーターを務めた後、関西大学文学部准教授を経て現職。早稲田大学感性領域総合研究所招聘研究員でもあり、スポーツを中心とした感性やゾーンの研究に従事している。
この鼎談は「早稲田学報1204号」に掲載されたものです。