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それぞれの在野
校友にとって、辞書的定義とは異なる意味を持つ「在野」という言葉。
校友にとって「在野」とは何か。
校友にとって「在野」とはどのような姿か。
校友それぞれのさまざまな「在野」がある中で、『早稲田学報』が選んだ「在野」の姿を紹介する。
取材・文=相澤優太
撮影=布川航太
障がいや病気を受け入れて生きることで、人に勇気を与える
医師 太田守武
おおた・もりたけ/1971年東京都生まれ。1994年理工学部材料工学科卒業、1996年大学院理工学研究科修士課程修了後、医師を志して大分大学医学部に入学。卒業後、訪問診療医の活動を開始するも、2014年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される。2017年「NPO法人Smile and Hope」を設立。2019年訪問介護事業所「訪問介護かぼすケア」開業。2020年「株式会社かぼすケア」を設立、訪問看護事業所「かぼすケア訪問看護ステーション」開業。
※この文章は、太田守武さんによるパソコンへの視線入力や、看護師さんが太田さんの目線の動きを読み取って文字を確定させていく「Wアイクロストーク」という独自のコミュニケーションによって執筆された文章を編集したものです。
体を動かすための神経が障がいを受け、筋肉が徐々に萎縮していく「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」は、治療法が確立されていない国の指定難病です。医師の太田守武さんは40歳でALSを発症。しかし、難病と闘いながら、無料医療相談や被災地支援、NPO法人の運営や訪問看護ステーションの開業など、積極的に活動を行っています。
訪問診療医として活動を開始して2年目、2011年の1月の頃でした。右足にかすかな違和感を覚え、周囲からは「引きずっているように見える」と言われました。検査を受けたのですが原因は不明。ヘルニアの所見があったことから、対症的に注射や服薬を続けていました。
東日本大震災発生後は、診療の合間を縫って被災地へ行ってボランティア活動をしていたのですが、今度は左足にも力が入らなくなり、転倒することが増えるようになります。トレッキング用のつえで体を支えながら、なんとか活動していました。
2013年の末には階段の昇降もできなくなり、そして翌年、ALSの診断が下されました。
絶望しかありませんでした。天職と思っていた訪問診療を断念しなければならず、生きる希望を失い、死ぬことだけを考えていました。当時息子は2歳でしたから、妻には幼い息子の子育てに加えてさらに夫の介護の負担を強いることになります。それは父としても夫としても耐え難いことでした。妻には「殺せ!」と何度も言いました。息子が幼いうちにこの世から消えれば父親の記憶は残らず、妻には新しい人生をやり直してもらえるとさえ思っていました。抱きかかえることもできなくなった幼い息子とは顔も合わせませんでした。半年間自分の殻に閉じこもりました。死にとらわれると、自分の存在自体を否定します。私は楽しかった記憶を消していきました。今もなお失ったままの記憶があります。
死にとらわれた私を救ってくれたのは、家族、仲間、医療福祉従事者みんなの懸命な思いでした。ふさぎがちでひきこもり状態にあった私でしたが、ある日、ケアマネジャーらに半ば強引に連れ出されました。日本ALS協会千葉県支部の酒井ひとみさんの講演会でした。同じALS患者の酒井さんの前向きな言葉に生きる勇気をもらえたのです。そこから、冷えきった心が少しずつほぐれ出していった気がします。死にたいけど死ねないという綱引きは続きましたが、訪問診療医の櫻川浩先生に「医者であり、ALS患者でもある太田先生だからこそ、話せることがあるはずです」と言われ、講演の依頼を受けました。八千代市民フォーラムで息も絶え絶えに声を振り絞って自分の気持ちを話しました。皆さん涙を流して聴いてくださり、励ましの言葉をかけてくださいました。そして自分にもできることがあると実感したのです。ALSを受け入れたのはその時です。
そこから私は走り続けています。2017年に「NPO法人Smile and Hope」を設立、無料医療相談を開始し、東日本大震災の被災地支援も再開しました。
2019年4月には、介護福祉士が所属し、重度訪問介護など長時間重度障がい者のそばに付き添い、食事・排泄 ・清潔などのサポートをする訪問介護事業「訪問介護かぼすケア」を開業したのですが、これはALS患者となってぶつかった最大の壁が契機になっています。ALSには特有の情動制止困難という症状があります。感情のコントロールができないということです。特に怒りを制御できず、周りに当たり散らした時期がありました。それでもみんな私を見捨てず、私は怒りを必死にコントロールすることに努め、最大の壁を乗り越えることができました。この経験で、なぜ「ALS患者さんは気難しい」と言われるのか、入ってくれる重度訪問介護のヘルパーが少ないのかが身に染みて分かったのです。
その後、2020年10月に「株式会社かぼすケア」の設立と同時に、看護師や理学療法士、作業療法士、言語聴覚士が所属し、医療的なケアが必要な方でも自宅で安心して過ごせるサポートを行う訪問看護事業所「かぼすケア訪問看護ステーション」を開業しました。訪問診療の経験にALS患者としての思いを乗せて活動しています。
そもそも幼い時から、私の周りには障がいのある方々がいました。母が目が見えない方や体が不自由な方のために作業所を運営していて、よく遊びに行っていたのです。その経験から将来は義手義足の研究をしたいと思い、早稲田大学理工学部と大学院で、表面工学や物質移動論の研究をしたのです。研究中はパソコン相手の毎日で、人と接するために母の作業所にボランティアに行っていました。
そこである患者さんに、こう言われたのです。
「福祉に明るい医者がいたらいいのに」
体中に電撃が走りました。
「自分は母を見てきて福祉というものは身に染みて分かっている。だからこそ医師となって医療と福祉の架け橋にならなければいけない」
そして大分大学医学部に進むのですが、そこで私の人生を変えた徳田靖之弁護士との出会いがあります。徳田先生は、薬害エイズやハンセン病などで国と闘った弁護士です。しかしとても温厚で、被害者の痛みをよく分かっています。先生と共に何度か熊本の施設に行き、ハンセン病回復者の皆さんと交流しました。皆さんとてもいい方で、ご自身の体でさまざまなことを教えてくださったりしました。そこで「医師になる上で、苦しんでいる方々を見て見ぬふりをしてはいけない、思いを受け止めなくてはいけない」と心に刻みました。
そんな時に熊本の温泉地で宿泊拒否事件が起こったのです。ハンセン病回復者の皆さんが宿泊を拒否されたことが、多くのメディアに取り上げられました。私はいてもたってもいられず、徳田先生と共に熊本の施設に行きました。そこで大きな衝撃を受けたのです。手紙がたくさん届いていました。半分はハンセン病回復者の皆さんを応援する手紙。でも半分はおぞましいものでした。「生きる価値はない」とか、「死ね」といった言葉が目に入ってきました。私は怒りに駆られました。
しかし、徳田先生は泣きながらこうおっしゃったのです。
「これは私の責任だ。私が啓蒙できていないせいで……」
私は自分の愚かさを恥じました。怒りは何も生まない。自分が社会を変えていかないといけない。徳田先生のように。この経験が常に私の頭にあります。そして、当時は未開拓だった訪問診療の道に飛び込んだのです。
訪問診療医として、訪問看護師、訪問薬局、ケアマネ、ヘルパー、患者さんといい関係を築き、多様な医療福祉従事者の関係構築にも奔走しました。患者さんやご家族には自分の携帯番号を教え、24時間365日、いつでも電話していいと伝えていました。自分の意思で行動できることが、訪問診療の醍醐味なのだと感じていました。
ALSにより、訪問診療医の仕事に従事できたのは、4年という短い期間です。しかし現在、「訪問介護かぼすケア」「かぼすケア訪問看護ステーション」を運営し、まさに「医療と福祉の融合」を実践できていることに、大きなやりがいを感じます。
生きることは、つらいことを多く伴います。今でも介護されることに申し訳ないという気持ちがありますが、私らしく生きることにみんなが協力してくれて、みんなで笑ったり泣いたりしています。「太田さんが頑張ってるんだから、私ももっと頑張る」と言ってくれる方がたくさんいてくれるので、生きる意味があると実感できています。
だからこそ、自分は必要ないなどと思う人には、「自分らしく生きてください」と言いたいのです。重度障がいや病気があっても、生きているだけで多くの人に勇気や笑顔を与えられます。重度障がいや病気を受け入れて前を向いて歩めば、それこそが人のために生きることになりますから。
校友の皆さん、苦しんでいる方がいたら手助けしてあげてください。もちろん私も力になります。私は延命しなければ今生きてはいませんでした。多くの人たちに救われた命ですから、最期まで人のために生き抜きます。早稲田魂を胸に。
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