谷沢実行委員長の稲門祭へのメッセージ

第2回 私の学生時代と現役生活
〜早稲田野球の伝統と誇り〜

(聞き手 広報サービス本部 渡邊幸生・清水克郎)

聞き手
―谷沢さんの大学時代及び早稲田の精神野球との出会いをお聞かせください―
谷沢実行委員長

1966年文学部に合格し野球部に入部しました。野球部の合宿所「安部寮」には、春季リーグ戦後に同期の小田義人、阿野鉱二、篠原元(はじめ)君等と入寮しました。約30人しか入れない「安部寮」ですから、選ばれた時には嬉しいものでした。まず安部寮に入ることが目標でしたからね。その後に“WASEDA"のユニフォームを着用できる機会が生まれてくるのです。厳しい寮生活や激しい練習に耐えなければ神宮の大舞台は踏ませてもらえません。寮は、1年生は原則として2年生と相部屋です。2年からレギュラーを掴むと一人部屋を与えられました。いち早くアメリカ的な自立心を育成する故・安部磯雄先生(野球部の初代部長)の考えでした。「上級生であろうと自分のことは自分でしなさい」という教えも伝承されていて、先輩が後輩に洗濯をさせるような徒弟制的なことはありませんでした。しかし、丁寧な言葉の使い方や学生としてのマナーは厳しく鍛えられました。同時に、故・飛田穂洲先生(初代野球部監督)の「よい選手になりたければ、私生活を大切に」の早稲田の精神野球も生きていましたね。特に「早稲田の野球部が日本の学生野球を引っ張っていかなければならない。勝ことだけでなく早稲田野球部の誇りを持たなければならない」ということでした。

さて、入部当時の部員数は約110人で、寮に入れない人はその近くに下宿しました。

練習の時間帯は、早朝からの1・2年生の新人練習と午後からのレギュラー練習に分けられていました。入学して3ヶ月程は苦しいランニングとグランド整備を覚えることでしたね。先輩には絶対服従しなければならない時代でもあり、それに耐えきれずに優秀な同僚も数多く去りました。様々な事情もあったことと思います。根気強くしがみついて行けたのは、早稲田野球の誇り高き伝統に憧れを抱き続けていたからで、だから我慢もできたのでしょう。

個人成績は、2年生の春季リーグ戦で首位打者をとってから4年生の秋季まで、打率連続3割、通算打率3割6分、18本塁打でした。また4年生のとき当時アマチュア最高峰の大会だったアジア野球大会の日本代表に選ばれ、主将をつとめました。

聞き手
―プロ野球の現役時代の苦労話と心に残る出会いをお聞かせください―
谷沢実行委員長

1970年ドラフト1位で指名されて中日ドラゴンズに入団、当時は勝負師水原茂監督。

開幕戦からレギュラーで起用され、オールスターゲームにもファン投票で選出されました。新人王も受賞という順調な1年目でした。1974年にリーグ優勝、1976年には張本勲さんを抜いて首位打者を獲得。その前年のシーズン終盤に王貞治さんから「目標は高いほどよい。私は千本の本塁打を目指している。谷沢君も3割を打ちたければ、3割5分を目指さないと3割は打てないぞ」とアドバイスを受けたことが契機でした。当時の王さんはベーブルースの714本塁打を超えた時で、目標の高さには頭が下がる想いでしたね。

その後、足のアキレス腱の炎症で、選手生命を危ぶまれる危機もありましたが、復帰した1980年には過去最高の成績で2度目の首位打者、カムバック賞もいただき、ベストナインに選ばれました。1982年に2度目のリーグ優勝、1985年に2000本安打を達成し、名球会入り。1987年に17年間の現役生活に別れを告げました。

―第3回に続く―